活動報告

今、不登校をふりかえって〜子供の視点と親の視点〜【完全版】

2016/04/21

【子供の視点】

中野太郎(仮名)さんは約7年前に高校を休学し中退。おととし、高校認定試験に合格された後、今年1月のセンター試験を受験し、神奈川県の大学に合格されました。みんなの家庭教師では、約7年近くの間、ほぼ週に一回、中野太郎さんとお会いして様々な話を伺ってきました。神奈川県へ旅立つ前に、これまでの過程を振り返りながら、御自身が、「今、不登校について思うこと」を話して頂きました。

 

 

 

ーー学校に通えなくなったきっかけを話して頂けますか?

 

中野太郎さん   もともと緊張しいな性格で、先輩や先生の前で気を使いすぎることが多かったんです。中学の時、勉強は出来たほうでした。塾に行っていましたが、大きなストレスになっていたように感じます。頭痛に悩まされた時期もありました。進学校に入り、そのストレスはさらに大きくなりました。不登校になった原因の一つは、数学の先生が苦手だったことです。今思うと、実際その先生に何かを言われたわけじゃなかったのですが、クラスメイトが怒られるのを目の当たりにして、ビクビクしてしまい、自分が怒られたように感じていました。

 

ーーそれも大きなストレスになっていたのですか?

 

中野太郎さん   はい、そうです。それだけが理由ではありませんが、徐々に学校に通いづらくなった理由の一つだと思います。

 
ーー学校に通えなくなった時、支えになったものはありますか?

 

中野太郎さん   ゲームやアメリカンフットボール、バスケットボールです。アメフトやバスケのスポーツ中継は、母と一緒に観ることが多かったです。最初、母はルールを知らなかったので、僕が説明しました。スポーツ観戦を通して、母に話を聴いてもらえたように思います。今振り返ると、自分一人だけでなく、母と二人で観たことに意味があったように思います。

 

ーーゲームも好きだったんですか?

 

中野太郎さん   ネットゲームもやりました。ときどき、学校に行かずにゲームをやっている自分自身を客観的に見て、「オレ、なにやってんだろう」と、気にしてしまうことはありました。その時に、ゲームを通じてですが、身元を明かさずに他者と交流できたことで、完全に引きこもっていない感覚を保てました。ネットゲームの中ですが、外部との接点を持つことができたので、そこは良かったと思います。

 

ーー学校に通えなくなった当時、親にしてもらって良かったこと、嬉しかったことは何ですか?

 

中野太郎さん   学校に行けなくなった時に、次のことをせっつかれなかったというか、次どうするかを催促されなかったのは、非常にありがたかったですね。

 

ーーそっとしてもらえたということですか?

 

中野太郎さん   そうですね。おそらく親は、心の中では、いろいろな思いはあったのだろうと思いますが。あと、母の知り合いで、不登校になっている子供さんの話を通して、僕にいろいろ聞いてきたことがありました。その不登校の子供さんの状況をひと通り説明したあとに、「あんたなら、どう思う?」「その子供さんは何が嫌なんかね?」などと質問されました。僕は、その質問に対し、その子供さんの身になって答えたのですが、その時に頭の中が整理されて、自分自身の中で「気付き」があったように思いました。

 

ーーつまり、他の子供さんの話を通して、客観的に考え、思考の整理ができたということでしょうか?

 

中野太郎さん   そんな感じでした。自分のことではなく、他の子供さんの話だったせいか、冷静になって考えられたのだと思います。結果的に、とても良かったと思います。

 

ーー学校に通えなくなった当時、「親にもっとこうして欲しかった」というのはありますか?

 

中野太郎さん   今だから言えるのですが、不登校は子供だけの問題ではないと思います。だから、親はもう少し早く外部に助けを求めたほうが良かったと思います。親が不安になると、子供も不安になります。逆に、親がのびのびしている姿は、子供を安心させると思います。

 

ーー外部に助けを求めるのは、早いほうがいいですか?

 

中野太郎さん   早いほうが良いと思います。なかなか難しいかもしれませんが、子供が学校に通えていないことを、周囲にオープンにして助けを求めることで、親が楽になり、いずれは子供も楽になるのだと思います。

 

ーー当時の学校の先生に、して欲しかったことはありますか?

 

中野太郎さん   僕の場合は、数学の先生が一番の問題でした。予習ができていなかった場合、罰として生徒を立たせていました。それを見るたびに、非常に責められている気持ちがして、「自分がそうなったらどうしよう」と考えてしまい、とても大きなストレスになりました。もちろん、その方法で勉強に励む生徒もいると思うので、一概に効果的ではないと言うつもりはありませんが、僕のように非常に苦しむ生徒が存在する事実を知ってほしいと思います。

 

ーー今までの約7年間で、中野さんにとって、励まされたり勇気づけられたりした出来事はありましたか?

 

中野太郎さん   不登校になって数年経過した後に、少しずつですが体調が安定し始めました。ちょうどその時期に親から誘われて、過去に不登校を経験した方の講演会に行きました。そこで、聞いた不登校の体験談は、当時の僕に「なんとかなるよ、きっと大丈夫だよ」と思わせてくれました。

 

ーーこの7年間で一番苦しかったことは何でしたか?

 

中野太郎さん   まず最初は不登校になる直前が苦しい時期でした。学校に行ったり行かなかったりしていた時期です。また、その後学校に行かなくなって昼夜逆転し、ある程度経った時期、毎日夕方近くになると、学校から帰宅する途中の小学生の話す声がよく聞こえてきました。その声を聞いた瞬間に、「あぁ、オレは今なにをやっているんだろう」と思ってしまい、非常に苦しかったです。

 

ーーそういう苦しい時期から脱け出せるきっかけは何だったのでしょうか?

 

中野太郎さん   ある時期から、アルバイトを始めたんです。まず最初にポスティング(チラシを配布する仕事)を始め、それからしばらくして、同時並行で食堂でも働き始めました。皿洗いはもちろん、簡単な調理も任されました。その他には、親の知り合いの方の紹介で、バスケのチームに混ぜて頂いて、ときどき体を動かしたりもしました。それ以降は、小学生の声はあまり気にならなくなりました。

 

ーー「何もしなかったことが辛かった」ということなんですね?

 

中野太郎さん   はい、そうです。ある程度元気になったことで、じっと家にいることが苦痛になっていたのかもしれません。アルバイトをすることで、社会に参加している実感がありました。今考えると、アルバイトやスポーツをして体を動かすことで、心のリハビリにもなっていたのかもしれません。

 

ーー子供が学校に行かなくなった時に、親はどんな言葉をかければいいのでしょうか?

 

中野太郎さん  「学校に行かなくていいよ」と言ってください。最初、親にとっては非常に勇気がいると思いますが、子供は非常に楽になります。無理やり学校に行かせようとすることは、絶対にして欲しくないです。

 

ーー「学校に行かなくていいよ」という言葉は、多くの親にとっては言いにくい言葉かもしれません。

 

中野太郎さん   親の立場からは、そうかもしれません。でも、子供の気持ちに寄り添い、親も変わる勇気を持つ必要があると思います。

 

ーー現在、不登校で思い悩んでいる人達に、どういう言葉をかけたいですか?

 

中野太郎さん   「学校に行かなくていいよ。何とかなるよ」です。今の世の中、逆境を乗り越えることは非常に称賛されると思います。それを否定するつもりはありません。でも、苦難に対して攻め続ける重要性を説くだけでなく、時には勇気ある撤退を説く必要もあると思います。

 

ーー歴史が好きな中野さんらしい表現です。人生という戦いを、攻めたり引いたりすることで乗り切っていこう、というのは共感できます。緩急をつけるイメージですね。

 

中野太郎さん   はい。スポーツや将棋などがそうであるように、人生も同じかもしれません。まだ僕は23年しか生きてませんけど(笑)

 

ーー親は子供と接する時に、どんなことを心がければ良いでしょうか?

 

中野太郎さん   普段から子供の気持ちに寄り添うことだと思います。子供が大きすぎるストレスを抱え続ける前に、「大変やったね。苦しかったね」と、悩みを聴いてあげて欲しいです。「どうして子供は親に相談しないのか?」「なぜ肝心な時、周囲に何も話してくれないのか?」と親の立場でよく言いますが、子供の立場で言うと「親に相談しない」のではなくて「親に相談できない」のだと思います。「ここで逃げたら、どこに行っても逃げ続けることになるぞ」と、苦難を乗り越えることを前提として子供と接することは、『相談する=恥』だと感じてしまいます。相談したくても相談できない辛い気持ちを、親や世間の大人に分かって欲しいです。

 

ーー「普段から」の環境づくりが大切だということですね。とても重要なポイントだと感じます。

 

中野太郎さん   はい。何かあった時に、子供にとって親に相談しやすくなるような環境づくりを、普段から親には意識して欲しいです。

 

ーーこの7年間をふりかえって、不登校から学んだことは何でしょうか?

 

中野太郎さん   考え方が変わりましたね。進学校に通っていた頃までは、「〜しなければならない」「〜するべき」といった考え方でした。白黒思考、ゼロか百の思考だったと思います。進学校に入るまで、大きなストレスを抱えながらも、その考え方で何とかやってきました。でも、とうとう疲れ果てて、体に影響が出てしまいました。その時に、やりすぎると良くないという事を痛感しました。それからは、一歩ひいて自分の考え方を見ることの大切さを学びました。「本当に自分を追い込む必要があるのか?」と考えられるようになったと思います。

 

ーー確かに、今後の人生にとって、その学びは非常に大きいですね。

 

中野太郎さん   はい、非常に大きいと思います。

 

ーー最後になりますが、約7年間、みんなの家庭教師は中野さんと接してきました。中野さんにとって、家庭教師にしてもらって嬉しかったことは何でしたか?

 

中野太郎さん   僕の場合は、勉強というよりは、いろいろな話をしたり、聴いてもらって共感して頂いたことですかね。家族以外の第三者に、定期的に接する機会をもらえたことで、落ち込んでいた時でも、家庭教師の先生に会うと気分が変わりました。家庭教師というよりは、カウンセリングの役割が大きかったと思います。また、他の生徒さんの話を聴くことも出来て、とても励みになりました。今までありがとうございました。

 

ーーこちらこそ、たくさん話して頂き、本当にありがとうございました。充実した大学生活をおくってくださいね。応援してます!

 

 

 

 

 

 

【親の視点】

ここからは、お母様へのインタビューを掲載します。これまで約7年間の中で、今だから言えることや多くの気付かれたことを話して頂きました。

 

 

ーー太郎くんが学校に通えなくなった当時、どんな気持ちでいらっしゃいましたか?

 

中野さん母   正直、「まさか、うちの子が」という感じでしたね。うちは息子二人なんですが、私にとってはどちらかと言えば、弟の太郎よりも兄の方が心配の種だったんです。典型的な次男坊で不登校とは無縁だと思っていただけに、本当に「まさか。。。」という感じでした。高校を休学した時、彼はうつ病にかかっていました。

 

ーーそうだったんですね。当時、家族の方は、太郎くんの不登校をどのように受けとめていらっしゃいましたか?

 

中野さん母   今思うと、当時はあまり重大には受けとめていなかったように思います。兄は弟を励まそうとして手紙を書いたんですが、それを読んだ太郎は「それができたら苦労しないよ」と怒ってしまい逆効果でした。主人は、うつ病の治療について、別の病院でもう少し具体的な治療を受けさせることを望んでいましたが、太郎はそれを嫌がりました。結局、うつ病は高校をやめた後まで、2年間ぐらい続きました。

 

ーーお母様にとって、苦しかった時期はいつでしたか?

 

中野さん母   一つは、太郎が昼夜逆転になってしまった時期です。もちろん初めてのことだったので、非常にショックを受けました。もう一つは、うつ病だった太郎に、主人が別の病院での治療を提案した際、太郎がそれを断わった時期です。主人の思いも太郎の思いも両方理解できただけに、板挟みになっているようで本当に苦しかったです。

 

ーーそれは苦しかったですね。その苦しかった時期、一番の支えになったものは何かありましたか?

 

中野さん母   支えというか、当時いろいろな親の会に行って、当時の状況を話していました。そこで話を聴いてもらえる時は、居心地が良く、わりと気持ちが安定していました。また、反省したり自分を責めたりしている間は、悲劇のヒロインになったような気分になって、気持ちが高揚していましたが、後になって疲れたり、しんどくなったりした時もありました。今思えば、当時は自分が何とか楽になりたいというか、子供のことより自分のことで精一杯だったと思います。

 

ーー現在と当時を比較して、お母様の太郎くんへの接し方の違いはありますか?

 

中野さん母   以前は、太郎を心配するふりをして、自分の心配ばかりをしていた気がします。例えば、親の会で、非行で暴力をふるう子供さんの話を聞いた時に「うちの子供は引きこもりで良かった。うちのほうがまだマシだ」と安心していました。また、太郎が不登校であることを最初の一年間、世間体もあり、親戚など外部に対して隠していました。その後、親戚の前で、私からでなく彼の口から「今、自分は不登校で学校に行っていない」と言わせてしまいました。太郎の心情を無視し、人格を全否定していました。本当に残酷なことをしましたし、太郎に対して申し訳なかったです。今ふりかえると、当時は自分に余裕がなかったというか、自分中心に生きていて、イライラしていました。不登校を、子供の問題として考えてやれず、自分の問題としてばかり考えていたためです。私の場合、そこに気付いた時が、太郎の気持ちに寄り添うための出発点だったと思います。

 

ーー不登校という問題を「子供の問題」としてでなく「親の問題」として考えてしまうと、自分だけの気持ちに向き合ってしまい、子供の苦しんでいる気持ちに気付きにくくなってしまいます。その結果、心が伴わない言葉だけの共感になってしまい、子供の気持ちに十分寄り添えないということですね。

 

中野さん母   そうです。うちの場合、高校を休学している間は、どうしても復学を基本路線と考えていました。その後、退学を決めて完全に高校と切れた瞬間に、子供の表情がガラッと変わりました。気持ちが楽になり、完全に心が休まるようになったのです。その姿を目のあたりにして、「もっと早く子供の気持ちを第一に考えてあげれば良かった」と後悔しました。「これからはもっと太郎の味方でいよう」と思い、ようやく子供の気持ちに寄り添えるようになっていった気がします。

 
ーーよく親御さんから、「うちの子は、もう一年以上も学校を休んでいます。もう十分休んでいるはずなのに学校に行けません。こんな状態がいつまで続くのでしょうか?」という内容の質問を受けます。どう思われますか?

 

中野さん母   以前の私も同じ気持ちでした。学校に復帰するためには、子供が心身ともに休養して心が回復する必要があると言われています。まず確認したいのは、「子供が安心して休養できている」状態かどうかです。「親自身だけが子供を学校に復帰させたい意思があり、そのために休養させているなら、子供は安心して休養できない」状態だと思います。

 

ーー「長い間学校を休んでいても、子供が安心して休養できておらず、心の回復が進んでいない」ことに、親は気付いていないということですね。

 

中野さん母   そうです。先ほども触れましたが、うちの場合は休学中だった高校をやめて、完全に学校と離れた時に初めて休養できる環境になりました。その時に初めて、「学校に復帰してもらうために休ませていた」という私の気持ちが強かったことに気付きました。同時に、「学校に復帰させたい気持ちが子供に伝わり、今まで子供は安心して休もうにも休めなかったのではないか」とも思いました。

 

ーー「学校を休んでいいよ」と言葉だけ伝えても、気持ちも含めて寄り添っていなければ、子供は十分に休めないということですね。

 

中野さん母   その通りです。

 

ーー「子供の気持ちに寄り添う」と言いますが、具体的にどういう姿勢が必要だと思われますか?

 

中野さん母   第一に、学校に通えず辛い思いをしているのは子供です。つまり、不登校は「子供の問題」です。だから、まず親が子供のためにできることは、「そんなに辛い思いをしてたんだね。今まで辛かったね」と、子供の気持ちに寄り添い、心の回復を進めることなんです。では、「親の問題」は何かというと、子供が不登校になることで発生するであろう、さまざまな不利益を想像し不安になることです。勉強が遅れる、社会性が身につかない、世間体が気になるなどです。

 

ーーまず、「子供の問題」と「親の問題」を区別するんですね。区別できているようで区別できていないのかもしれません。

 

中野さん母   はい。親と子供の問題をごっちゃにしてしまうと、「(子供のためにというよりも、親の焦りを解消するために)早く学校へ復帰して欲しい」となり、質問のように「いつまで家で休んでいるの?」とつい言いたくなります。その時はすでに、子供の気持ちに寄り添えていない現実があり、子供は休養できず心の回復が進みません。

 

ーー子供の問題を親の問題としてとらえてしまうと、親は自分の気持ちを優先しがちになります。そうなると、思い通りにならない子供の状態にイライラしてしまいやすくなりますね。

 

中野さん母   最優先すべきは、親の気持ちではなく、子供が安心して休養できる環境を作ることです。ましてや、無理やり学校へ連れていったり、学校へ行くように圧力をかけることは長い目で見ると逆効果です。

 

ーー子供の立場から考えると、「これ以上学校に行きたくない」と思っても、親から「この状況から逃げるな。ここで逃げたらどこに行っても同じだぞ。乗り越えることで成長するんだ」と言われたり、今までそう言われて育った背景があると、「他の選択肢を探すことは逃げることで、恥ずかしいことなんだ」と考えてしまいます。当然「行きたくない」と言いたくても、言うことはできなくなります。そうなると、逃げ場がなくなり本当に辛いと思います。

 

中野さん母   そうなんです。親の姿勢が変われば、子供は安心して休めるので心の回復が早くなります。また、今の学校にこだわらなくなり、子供自身が違う選択肢を考えやすくなります。一方で、親は今まで子供について考えていた時間を、自分のために使うことができます。その結果、親がのびのびと自分らしく生きることができるようになります。その姿をきっと子供は見ているので、自然に子供も変わっていきます。

 

ーーところで、「親の問題」はどのように解決されましたか?

 

中野さん母   私の場合、親の会で話を聞いてもらうことで、不安をある程度は解消することができました。その親の会には、月に一度参加していましたが、最初の頃はその間隔では間に合わず、毎週誰かに聴いてもらわないと苦しい状態でした。親の問題が解消されないと親が苦しくなり、子供の気持ちに寄り添うことも難しくなります。親の気持ちを聴いてもらう場所を見つけることは大切だと思います。

 

ーー「話す」は「放す」と言います。日頃の親の蓄積した思いを「放す」場所を見つけることが、子供の気持ちに寄り添うために大切だと改めて実感しました。

 

中野さん母   はい。親自身が生き生きと、自分の人生を楽しみ出すと、この種の質問は自然に頭の中から消えてしまうと思います。

 

ーーこれもよくある質問の一つですが、中野さんはどう思われますか?「子供の気持ちに寄り添いたいと思っています。でも、学校を休んで、ずっとマンガやアニメの動画、ネットゲームばっかりしている姿を見ると、なかなか寄り添う気持ちになれません。早く学校に行って欲しいと思ってしまいます」

 

中野さん母   数年前に、不登校を経験された方の講演会に出たことがあります。その方から、「当時、ゲームをしたくてやっていたのではない。辛い状況を感じないようにするためにゲームをしていた」と聞きました。

 

ーー楽しんでゲームをしていたのではないと。これを聞くと、多くの親御さんは意外に思われるかもしれません。

 

中野さん母   そうですね。でも、私の場合は違ったんです。その話を聞いた時、二十年近く前に主人の仕事の都合でニューヨークに住んでいた頃の自分を思い出しました。当時私は全く英語が理解できず、外出中に英語で話しかけられると頭が真っ白になりました。その状況に大変大きなストレスを感じていました。そんな時に、日本から持ってきた好きなマンガを読むことが、自分にとっての大きな支えでした。辛い状況を感じないようにするために、当時の私にとって日本のマンガが必要だったのです。だから、子供の心が回復するために支えになる存在が、ゲームやアニメであることはよく理解できます。

 

ーーそのようなお母様ご自身の体験を通して、太郎くんに対して具体的にどのように接したのですか?

 

中野さん母   息子は、アメフトやバスケ、ネットゲームが好きでした。私は何とか太郎と同じ時間を共有したいと思いました。最初は全くアメフトやバスケのルールを知りませんでした。それでも、太郎に教えてもらいながら、一緒にテレビで試合を観戦しました。録画された試合を観ることが多かったのですが、私が質問するたびに、太郎は一時停止ボタンを押してから、試合の状況を丁寧に解説してくれました。

 

ーーそうだったんですね。太郎くんの好きなことを共有し、共感されたのですね。

 

中野さん母   はい、太郎も生き生きとした表情で、いろいろ教えてくれました。

 

ーー子供の気持ちに寄り添うという視点で考えると、中野さんのように子供の好きなことに関心を持って、共有・共感することが大切なんだと改めて思いました。

 

中野さん母   そうですね。一つだけでいいので共有・共感できるものがあればと思います。

 
ーーこれまで、毎日心がけていたことはありますか?

 

中野さん母   一つは、食事です。食べることは非常に大切だと考えていましたので、食べようが食べまいが、太郎の食事をしっかりと作っていました。もう一つは、家族以外の第三者の風を入れることでした。家庭教師の先生の他にも、当時お世話になっていた鍼灸の先生に来て頂きました。できるだけ、家族以外の人間が入る家にしたいと考えていました。

 

ーー不登校になった後、社会性を身につけることに関して、どう考えておられたのですか?

 

中野さん母   先ほどと同じ答えになりますが、できるだけ第三者の人間と会わせるようにしました。家庭教師など家族以外の方との接触を保ったことによって、その後外に出て、バスケのサークルやバイト先の人達と触れ合いやすくなったと思います。

 

ーーこれまでを振り返り、「あの時、もっとこうしておけば良かった」と後悔していることはありますか?

 

中野さん母   ある時に、太郎に家事を手伝ってもらおうと思い、一緒に食事を作ったことがありました。今では、太郎は料理ができるようになっていますが、当時は料理の経験も少なかったので、私一人で準備したほうが早く作れたんです。それを察した太郎が「僕が手伝って、役に立つの?」と聞いてきました。私は「まあ、助かるかな。。。」と曖昧な返事をしてしまいました。当然ながら、それ以降は手伝ってくれなくなりました。あの時、「あんたに手伝ってもらって助かるわ〜、いつもありがとう」と答えたほうが良かったと今は思います。

 

ーー「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えたほうが良かったということですね。

 

中野さん母   はい、「ありがとう」は相手の存在価値を高める言葉ですよね。

 

ーーどんな時に、太郎くんの回復を感じ始めましたか?

 

中野さん母   一つは、バスケのサークルに入った時、練習時間に合わせて現地へ行くことができた時です。また、そのチームメイトのホームパーティーに誘われて、そこへ行くことができた時もそれを感じました。もう一つは、バイトを始める際、太郎が自分で電話をして、先方と話をすることができた時です。

 

ーーお母様が、不登校を通して学ばれたこと、気付いたことは何でしたか?

 

中野さん母   一つは、「〜であるべきだ、〜しなければならない」の考え方から、いろいろな考え方があっていいと思えるようになったことです。その結果、以前よりも自分自身を好きになれました。もう一つは、太郎の不登校を通して、彼の人間像を知ることができました。学校に行かなくなる以前までは、子供の全部を理解していると思っていました。でも、やんちゃな次男坊だと思っていた彼に潜んでいた繊細な部分を知ることで、実はそうではなかったことに気づかされました。

 

ーー親だからといって、子供の全てを理解できていたわけではなかったのですね。

 

中野さん母   そうです。「子育ては自分育て」であると、本当に実感しました。学校に行けなくなって今に至るまで約7年経過しましたが、かかった年数分、子供に手をかけさせてもらったと感じています。例えば、もっと大人になって親元を離れた後に、会社に行けなくなって引きこもってしまっても、太郎のために多くのことを出来ないのではないかと思います。今だから言えることかもしれませんが、私の目の前で起こってくれて良かった気がします。

 

ーー最後ですが、みんなの家庭教師に来てもらって良かったことは何でしたか?

 

中野さん母   子供を客観的に見てくれる人がいることで、親の目線では気付かないことを指摘して頂いたことです。第三者の言葉で、気付かされることが多くありました。また、太郎にとっても、定期的に家族以外の方と話をすることで、気分がリフレッシュされ、その後、他の外部とのコミュニケーションが円滑になったと思います。約7年間ありがとうございました。

 

ーーこちらこそ、長い間ありがとうございました。今日のインタビューを長時間引き受けてくださり、大変感謝しております。本当にありがとうございました。

 

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